雑司ヶ谷霊園を訪ねた前回に続く【後編】は、案内マップを頼りに、著名人のお墓をいくつか巡ってみた記録です。墓マイラー(著名人のお墓を参る人)初心者でも、短時間の散策で十分すぎるお墓に出会うことができました。
前回の墓マイラー活動記録はこちら。
昭和のお墓に欠かせない? 名刺受けウォッチもしてみましたよ。
都立雑司ヶ谷霊園へ
今回訪れた東京都豊島区、都立雑司ヶ谷霊園については、前回の記事にて詳しく。10月のこの時期に、短期収蔵施設の募集をしていたので、どんなものかを見てみる目的でした。
目的を終えたので、大きな都立霊園ならではの、著名人のお墓を巡ってみようというわけです。
しかし、この日は朝から曇天で、園内の雰囲気もなんとなくグレー。10月の気候は散策にはぴったり。前回は真夏に墓マイラー活動をしたこともあり、都会で季節を感じられる機会だな、とつくづく感じました。
雑司ヶ谷霊園に眠る著名人
まずは管理事務所で、下の「東京都雑司ヶ谷霊園に眠る著名人」が掲載された園内マップを入手しないとはじまりません。
墓所番号だけでなく、地図にも番号で指し示されているのでわかりやすいです。
こちらの豊島区による雑司ヶ谷霊園MAPには、さらに抜粋された著名人の説明&イラスト付きです。
今回これは、管理事務所には置いていませんでした。
地図を見ながら、訪ねたいお墓を見つけ、ある程度ルートを決めて歩いてみることにします。さて、目的のお墓にちゃんと辿り着けるでしょうか。
夏目漱石(1867-1916)の墓
最初に目指すのは、やはり誰にとってもメジャーな夏目漱石先生です。園内を通る区道・中央通りから近いこともあって、すぐに見つけることができました。どーん!
夏目 漱石
職業:文学者/生没年:慶応3〜大正5年/墓所番号:1種14号1側3番
ちょっと変わったデザインは安楽椅子を模したと言われているようです。お隣に立つ夏目家のお墓が一般的なサイズ、と考えると2.5〜3倍の高さで、大きさ、重量感も相当なものだと分かるでしょうか。
墓所を囲う柵も立派なつくりで、ひときわ目立つ、威厳のあるお墓でございました。
ところで、夏目漱石といえば教科書に出てきた『吾輩は猫である』や『こゝろ』といった小説家であるという知識のほかに、ビジュアルとしては「千円札の顔」と覚えていたのですが……
そうそう、このお顔、あれ? 夏目漱石の肖像は旧・千円札(写真左)でした。調べてみると1984年〜2004年まで発行さていたお札でして、どうやら青春時代の記憶そのままで止まっていたようです(汗)。お参りしたときに想像したお顔は合っていたのがせめてもの救い……ちょっとほっとしました。
現在は野口英世先生でして、2024年には感染症医学で名を馳せた北里柴三郎氏へと変わります。約20年ごとに変わるのですね、と勉強になったのでした。電子マネーになると益々忘れてしまいそうで、それも寂しいですね。
話がそれました.
せっかくなので、ちゃんと知識を入れ直しておきましょう。
夏目漱石(本名、夏目金之助)は、慶応3年(1867)、江戸牛込馬場下横町(現在、新宿区喜久井町)に生まれた。幼くして養子に出された。
東京帝国大学卒業後、松山中学校、熊本第五高等学校などで英語を教える。
明治33年(1900)から明治35年(1902)まで、英国へ留学する。
帰国後、東京帝国大学などで教鞭を取るが、明治38年(1905)、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載、明治40年(1907)には教職を辞し朝日新聞社に入社する。以後、朝日新聞に『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こゝろ』、『道草』、『明暗』などを連載する。
大正5年(1916)12月9日、胃潰瘍のため死去。
東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ より
49歳の若さで亡くなられ、小説家としての活動は実に10年ほどだったという濃い人生を送られたのだと、尊敬の念をあらたにいたしました。合掌。
竹久夢二(1884-1934)の墓
竹久 夢二
職業:画家/生没年:明治17〜昭和9年/墓所番号:1種8号9側32番
墓石の佇まいが、渋い、なんと素敵なお墓でしょうか。
ここには「大正浪漫を代表する画家」として、豊島区教育委員会による説明板がありました。
画家の功績はやはり絵で見たいところではありますが、お隣文京区には竹久夢二記念館があって、多くの作品を見ることができます。一度訪れたことがありますが、お墓とリンクできるとまた別の体験ができそうです。
東條英機(1884-1948)の墓
奇しくも竹久夢二と同じ生年なのだと知った、軍人であり終戦時首相であった東條英機の墓です。「著名」にもいろいろとあり、ジャンルが違うと別次元で捉えがちですが、近くにお墓があれば、同じ世界線にたしかにいたのだと思い知らされもします。
東條 英機
職業:軍人・首相/生没年:明治17〜昭和23年/墓所番号:1種1号12側6番
ほかのお墓とただ並んでいるようでいて、近づくとやはりただならぬ雰囲気を漂わせています。台座の2段目は小さな石が固められた、お城の外壁のような造りで、さらに上に大きな墓石が重なって、相当な高さと重量感です。
墓碑名は「東條家之墓」とありますが、ここに彼の遺骨は埋まっていないと思われます。(確かではありません)
ちょうど今年、極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となった東條らの遺骨に関するニュースを目にしたことから、興味を持ったところでした。
ほとんどの遺骨がGHQにより太平洋に撒かれていたことは、公文書の存在をもってより確からしさがあります。
一方で、火葬場にのこった7名の遺灰が持ち出されたとされる説があり、それが静岡県熱海市の寺院「礼拝山興亜観音」の「殉国七士廟」に埋葬されているというのが2つ目の記事。根拠になっている文書(「興亜観音のいわれ」(創建時 本修院道場主 伊丹忍礼 筆)pdf)にも目を通すと、まるで映画のような出来事です。
雑司ヶ谷霊園のお墓を見ただけでは、建立時期はわからなかったのですが、ここ東京に墓碑があることは確かなことです。GHQは一体どこまでを危惧して遺骨を還さなかったのか、目の前に建つお墓を前に、思いを馳せるのでした。
泉 鏡花(1873-1939)の墓
(2024年7月追記)2023年11月末に撤去され、東京・神楽坂にある円福寺の墓地の一角に移転したとのことです。以下、当時の記録として残しておきます。
続いて、ちょうどどなたかがお線香を供えたあとだったのが、作家・泉鏡花の墓です。スリムで長身でダンディです。
泉 鏡花
職業:小説家/生没年:明治6〜昭和14年/墓所番号:1種1号13側33番
周囲が開けていて案内板も目立ちます。「鏡花 泉鏡太郎墓」と本名とともに刻まれていました。不勉強だったので、またもや後から辿ることに。
浪漫と幻想の作家 泉鏡花
泉鏡花記念館 – 金沢文化振興財団 より
幼い頃に母を亡くした泉鏡花。その作品は亡母憧憬を基底に浪漫と幻想の世界を小説や戯曲という形で紡ぎだしてきました。明治半ばから創作活動を始め、大正、昭和にかけて、300編あまりの作品を生み出した鏡花は、やがて文豪と称えられ、また天才とも謳われるようになりました。「義血俠血」「高野聖」「婦系図」「歌行燈」「日本橋」「天守物語」などまばゆいばかりの傑作の数々は、文学の世界だけでなく、視覚芸術である舞台や映画という手法によっても発展し、現在も人々に愛され続けています。
享年65が長生きと感じられる時代に、その後、映画『天守物語』のような古びない視覚芸術に通じる作品を多く残されたのですね。
永井荷風(1879-1953)の墓
小説家・永井荷風のお墓です。
永井 荷風
職業:文筆家/生没年:明治12〜昭和34年/墓所番号:1種1号7側3番
なんと、生い茂る生垣に囲まれております。立て札がなければ見過ごすかと思いきや、ほかにこんな風に緑が豊かなお墓はなかったので、逆に目立っていましたね。
「失礼します」とお宅へお邪魔する気持ちで中へ入ると、「永井荷風墓」を真ん中にして3基のお墓が並んでいました。
それぞれに綺麗なお花が供えられ、静かな墓地のなかでもさらに静謐さが漂っているようような空間が完成しているよう。ごく一般的な墓石ながらも、美意識が踏襲されているような、粋なお墓でした。
小泉八雲(1850-1904)の墓
小泉 八雲(ラフカディオ・ハーン)
職業:作家/生没年:嘉永3〜明治37年/墓所番号:1種1号8側35番
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)のことは、外国人なのに日本名を名乗って活動した方、くらいの認識しかなく、たいへん申し訳ありませんでした。生涯日本で暮らすほどの日本文化への愛からなのか、墓石も堂々と日本風を貫いていて格好よく、庭園のような風情が印象的でした。
帰ってから知識を埋めるのに役立ったのが、漫画エッセイ『日本文学〈墓〉全集 時どきスイーツ』。
小泉八雲のパートをまとめると……
- 1890(明治23)年、アメリカから記者として来日(当時40歳)
- 島根県松江に英語教師として赴任、18歳年下の小泉節子さんと結婚
- 日本に帰化した際の名前「八雲」は出雲へ愛から
- 代表作は『怪談』(「雪女」「耳なし芳一」が有名)
- 海外で日本文化に関する著作を多数出版
- 帝大(東大)や早稲田大学で教鞭を取る
- 日本の墓地が大好きだった
- 雑司ヶ谷と鬼子母神は家族と歩く散歩コースであった
…これだけでもファンになってしまう、魅力的な人物ですね。
この漫画エッセイ、墓マイラー活動のあとにご当地カフェやスイーツを楽しむというコンセプトが面白い! 今度は真似してみたいです。
ベスト・オブ・名刺受け
唐突ですが、じつは当サイト「おはかんり」で密かにアクセスを集めている記事が、こちらなんです。
お墓の「名刺受け」について、多くの方が気になっているみたいです。わたしもおおいに気になっているため、雑司ヶ谷霊園でも名刺受けをウォッチしてみました。
ご紹介したいのは、通り沿いにあって足を止めざるを得なかったのがこちら、灯籠型名刺受け。
ひときわ大きな区画内が庭園風デザインとでもいいましょうか、手水鉢とともに配置されています。樹木の上に載っているように見えて、ぜんぶ石製なんですよね。とても格好よく、目立っていて、「写真撮って」と言わんばかりの存在感です。
そう、ふるい名刺受けのあるお墓はたくさんあるものの、なかなか一人で覗き込む勇気がなかったりもしてしまうのですが、こんなにオープンなのもありがたいですね。まことに勝手ながら、こちらを今回の「ベスト・オブ・名刺受け」に認定しようと思います。
また、マップにも載る著名人のお墓にも名刺受けがあったことには驚きました。今回訪れたなかでは、東条英機、泉 鏡花のお墓にあった、ノーマルタイプの名刺受け。
それぞれ背後にまわってみますと、プラスチックのカバーのようなものが付けられており、中を覗けないようになっていました。セキュリティの観念はなさそうですが。
このように歴史上著名な人物たちであっても、近現代ある時期の、日本のお墓文化を継承もしているのだなぁ、と身近なつながりを感じる発見ができました。
名刺受けの謎に迫る旅は、これからの墓園散策、墓マイラー活動にも取り入れていきたい深みがあるものです。必要なのは先人を敬う気持ちと、写真を撮る勇気(撮れる空気にないお墓も多いんです)かな。ぼちぼちやっていきましょう。
墓マイラー覚え書き
今回、泉鏡花の墓の近くを一人うろうろしていると、年配女性から「ほらあそこが銭形平次のお墓よ」と教えられました。
「銭形平次…??」と鈍い反応しかできなかったのですが、歌舞伎役者の2代目大川橋蔵さんのお墓のことでした。テレビドラマ『銭形平次』で、1966年からなんと18年間も主人公を演じられ、当たり役となったようです。
なるほど、世代間ギャップがすこしあったようですが、親切に教えていただきありがとうございました! そんな大川橋蔵さんのお墓は、お掃除中で写真に納められなかったので、気になった方は近くで探してみてください。
明治7(1874)年開設の雑司ヶ谷霊園には、明治から昭和にかけての著名人がまだまだ眠っています。でも、一度に6人のお墓参りでいっぱいいっぱいでした……。近い距離でまわれてしまうだけに、気をつけないと混乱してしまいますね。
最後に、こちらの看板も。
この地は、8代将軍吉宗の時代、享保4(1719)年には御鷹部屋があった場所だそう。当時の松が今も園内に……なんて、土地に紐づく情報です。タイムスリップネタが豊富過ぎます。
都立霊園とは、過去と現在が交錯するスポットであることをあらためて感じたのでした。次は、あの大物のお墓を目指してみるかな?