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【有名人のお墓】墓マイラー初心者にも優しい『芥川龍之介の墓』

芥川龍之介の墓

先日、巣鴨から染井霊園を訪ねようとしたところ、地図上に「芥川龍之介の墓」マークが出現しました。日本文学界の寵児として知らない人はいない有名人のお墓が近くに! と思ったら、つい引き寄せられてしまいました。

偉人や有名人のお墓を訪ね、墓参する人を「墓マイラー」というそうです。ならばこれも墓マイラー活動?
超初心者ですが、記録をのこしておこうと思います。

はじめてのことで準備もなしの墓マイラー。…反省も含めて。

こんな記事

芥川龍之介(1892-1927)

まずは芥川龍之介について、実は名前と作品のごく一部しか知らないかも……ということで、おさらいします。

小説家 芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)
明治25年(1892)~昭和2年(1927)

東京・京橋出身。大正3年、一家で田端435番地に新築転入。東京帝国大学時代、久米正雄、菊池寛らと『新思潮』(第3、4次)を創刊。夏目漱石の門下となり、「鼻」を激賞された。その後「手巾」「芋粥」等を次々に発表し、一躍文壇の寵児となる。一時期、鎌倉、横須賀、鵠沼にも居住したが、同8年、田端に戻り、本格的に文筆活動を展開。たぐいまれな才気と下町人特有の世話好きな性格は多くの人々を惹き付けた。昭和2年7月、「唯ぼんやりした不安」という言葉を遺して自ら命を絶つ。忌日は「河童忌」と呼ばれる。

田端文士村記念館|北区文化振興財団

東京帝大在学中から35歳で亡くなるまでの13年間を、田端で過ごし数々の代表作を残したことから、お墓のある豊島区より、北区の方が文化振興に積極的なようです。

昭和10年に、友人であった菊池寛(1888-1948)が、友人の名を記念した「芥川龍之介賞」を「直木賞」と同時に制定しています。芥川賞は、わたしたちが芥川の名前に馴染みが深い理由のひとつではないでしょうか。

慈眼寺(じげんじ)

芥川龍之介のお墓があるのが、日蓮宗のお寺である慈眼寺(じげんじ)です。

正寿山 慈眼寺
住所:東京都豊島区巣鴨5-35-33
宗派:日蓮宗
最寄り駅:都電荒川線「新庚申塚」駅 徒歩10分/JR山手線・都営地下鉄三田線「巣鴨」駅 徒歩10分

都立染井霊園の西側に隣接していますね。巣鴨駅から、とげぬき地蔵のある白山通りを経由して向かったところ、このような細い路地を通ることになりました。

右側が染井霊園、左側が慈眼寺の敷地内墓地のようです。一本道が続いて多少心配になりますが、意外と通行人が通るので、先を信じて進んでいくと……やっと入口があらわれました。

門が開いてたので入ってみます。ちなみに、この向いは染井霊園への入口となっており、駒込方面から染井霊園内を通る染井通りを一直線に来ることができます。

染井霊園MAPにもしっかり載っていました。外周を周ってきたので、少々不安になってしまったんですね。

染井霊園MAP|豊島区

芥川龍之介の墓を目指す

お寺本堂へ続く扉は閉まっており入れなかったため、お参りは失礼して、左手に広がる墓地へ向かいます。すると目立つところに、豊島区教育委員会による案内板がありました。

古くなってしまって読めない部分もありますが、これは心強いです。ぐんぐん中へ進みます。

しばらく歩くと、目立つ道案内があって助かりました。

芥川龍之介の墓

案内通りに曲がっていくと、左手にありました。芥川家の区画です。

右に「芥川家之墓」、そして左が「芥川龍之介墓」です。
墓誌を拝見したところ、「昭和二年七月二十四日 芥川龍之介」が筆頭となっていますが、龍之介墓だけが単独になっていました。

正立方体に近い墓石が珍しいのですが、龍之介が生前に愛用した座布団がモチーフであることを、あとから知りました。上部に家紋があるそうなのですが、そこまで見ることができませんでした。

7月の暑さでお花が枯れてしまっていますが、命日の7月24日が「河童忌」とされており、近いうちに多くの文学ファンが訪れ賑やかになることでしょう。愛煙家だったことから、タバコが供えられていることも多いそうです。

今回は供えるものなど何も持たずに来てしまいましたが、文豪に思いを馳せるひっそりとした時間を過ごすことができました。とても静かな墓地で、このときは離れたところに墓参者が一組いらっしゃったくらいでした。

さて、芥川家之墓の横手にまわってみたところ、立派な「蜘蛛の糸」が張られていたのでパシャリ。

芥川の短編『蜘蛛の糸』だけはそのストーリーとともに鮮烈に覚えているものですから、なんだかこの場に似つかわしいな、(いくら立派な糸でも、人が蜘蛛の糸を辿って地獄から這い上がるって、そもそも無理ゲーだな。)などと思いながら。

その他有名人のお墓

その他にも案内にあったお墓を探してみようと少し歩いてみました。

司馬江漢(しばこうかん)・斎藤鶴磯(さいとうかっき)の墓

慈眼寺で東京都指定旧跡になっているふたつのお墓です。
説明文入りの案内板が目立っていたので、見つけることができました。

司馬江漢の墓

司馬江漢(1747(38説あり)-1818)は江戸後期の洋風画家、蘭学者です。安藤氏の子として生まれ、勝三郎などと称し、後に唐風に司馬、名を峻としました。狩野派に学び美人画を描きました。その後、平賀源内や秋田蘭画の小田野直武・佐竹曙山などと交わり、銅版画の制作に成功しました。本所猿江町慈眼寺に葬られましたが震災後現在地に移転しました。(東京都文化財データベースより)

斎藤鶴磯の墓

斎藤鶴磯(1752-1828)は、水戸藩士の子として江戸に生まれました。江戸時代中・後期の儒学者、地誌研究家として知られています。武蔵国所沢に住み、江戸時代の有名な地誌である『武蔵野話初編』を文化12年(1815)に完成させました。他に『女孝経補注』や『干支考』などの著作も知られています。文政11年(1828)に亡くなり、本所猿江町の慈眼寺に葬られましたが、のちに寺の移転に伴い改葬されました。(東京都文化財データベースより)

読めばなるほどですが、予備知識がないままに、手を合わせるだけとなってしまいました。

墓石から長い年月を感じましたが、慈眼寺は1912年に現在の地に移転したそうです。お墓ごと移転させたとなると、どれだけ大掛かりな引っ越しだったのだろうかと苦労を偲ぶことにもなりました。

谷崎潤一郎の墓

やはり近代日本を代表する小説家・谷崎潤一郎(1886-1965)の墓があることを、染井霊園MAPで知りました。

わたしが作品を知る数少ない文豪ですから、見ておきたかったですが、下調べもなしに、そう簡単ではないですね。

芥川也寸志の墓

さらに、あとで知ったのですが、芥川龍之介のご子息で音楽家の芥川也寸志さんが、別のお墓であることを知りました。

墓誌を確認したところ、長男である比呂志さん、次男の多加志さん(第二次大戦で戦死)は芥川家之墓に眠られていましたが、三男である也寸志さんは、別のお墓を持たれていたのですね。当然と言えば当然です。

大好きな映画『砂の器』(1974)の音楽監督であり、『八甲田山』や『八つ墓村』(1977)など数々の名作映画音楽の作曲を手掛けており、大尊敬していましたので、芥川也寸志先生のお参りができていなかったことが残念でした。

墓マイラー覚え書き

偶然にして初めて、単独にしてはまずまず上出来な墓マイラー活動となった、芥川龍之介のお墓参りでした。たまたまちゃんと拝めてラッキーなことでしたが、こうして振り返ると、気づきや後悔がたくさんあるものです。

有名人のお墓参りには、どういう観点が必要か。
今回でいえば、その人物の歴史的功績や地縁といった、人物の深掘り、下調べが決定的に不足していたこと。自分はその人物をどう捉えているのか、かなりぼんやりとしていました。

また「芥川龍之介墓のてっぺんをチェックしてみたかった」となった具体のお墓のエピソードも、知らないと見逃します……。できるだけの情報を持って臨みたいところです。

近くに有名人のお墓があるのにスルーしてた、というのももったいないですよね。

突如行くことに決めたので仕方ないですが、下準備をしっかりしたうえでの墓マイラー活動は、きっと充足感がすごく得られるのではないかと思います。

今回でさえ帰途さっそく『蜘蛛の糸』や『』をオーディオブックで耳読してみるなど、思いもかけず文学に触れるきっかけになり、事後であっても自身の知識や教養が豊かになるメリットもあります。

また、静謐な空間に身を置くことで、なんだか自身の思考がクリアになる気分にもなりました。パワースポット的な感覚でしょうか。

都立霊園にも多くの著名人・有名人のお墓があることは明らかになっていますし、お墓の情報は多く出ているものです。ですから、墓マイラーは実は簡単にできる活動であるともいえます。

この先も機会を見つけたら、チャレンジしていきたいと思います。

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