都立谷中霊園の概要をざっくりお伝えした先の記事につづいて、谷中霊園【有名人のお墓】編です。ボランディアガイドさんの案内を頼りに、訪れたかったお墓を中心にいくつかに参ることができました。谷中霊園の土地柄もあり、敷地内の寛永寺霊園にある大御所のお墓も一緒にご紹介します。
歴史と土地柄に触れる経験ができるのは、墓マイラーならでは!
都立谷中霊園へ
ある日曜日の午前中、東京都台東区にある、都立谷中霊園を散策しました。谷中霊園のざっくり概要、ボランティアガイドさんにお世話になった件は、前回の記事をごらんください。
谷中霊園は町と一体化した墓地であり、多くの有名人も眠っています。加えて、近代日本に多大な功績を残した人々の墓碑や石碑類も多く設置されているスポットなのだとわかりました。
そんななかでも2021年に特に訪れてみたかった有名なお墓があり、これまでよく知らなかった人物のお墓も含め、いくつかを訪ね歩いてみました。特に印象にのこったお墓とその感想を、順不同でご紹介します。
徳川慶喜(1837-1913)の墓
まずは、徳川最後の将軍・徳川慶喜公のお墓です。今年訪れたかったのは、大河ドラマの影響ですね。
谷中霊園の敷地内に、柵で囲われた大きな区画があります。ここは寛永寺寛永寺谷中第二霊園として公的に管理されているそうです。
徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ、1837年10月28日〜1913年11月22日)
墓所:寛永寺谷中第二霊園/東京都指定史跡
江戸幕府15代将軍、水戸藩に生まれ一橋家を継ぐ。1866年将軍に就任。1867年将軍職を辞任し大政を奉還した。将軍在職期間は約1年に過ぎなかった。朝廷に謹慎恭順の態度を示したことで比較的平和なうちに政権の移譲を成し遂げた。
訪れる人が多いのでしょう、看板も多く設置されているため行き着くのはそう難しくはありません。
徳川家の「三つ葉葵」の家紋で守られた立派な門は閉まっているため、柵の隙間から中をのぞきます。
「徳川慶喜公事蹟顕彰碑」が立つ奥に、左手に慶喜公、右手に正室・美賀子(1835年9月11日〜1894年7月9日)の墓が並んでいました。なんだか落ち葉の季節が似合います。後方にもいくつかのお墓があるようですね。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
東京都教育委員会 東京都指定史跡「徳川慶喜墓」看板より
慶喜墓は昭和44年、東京都指定史跡に指定されています。どっしりとしたお墓は神道式のため、寛永寺の墓所と離れて区切られているのだそうです。左手には「徳川家之墓」もあり、この敷地内に一族のお墓がいくつも配置されているようです。
中に入ることができないのは残念ですが、離れていることで墓石周辺の静謐さが際立ち、歴史の大きな転換期にあった重要人物の存在感を示しているようでもありました。
わたしがいた少しの時間でも多くの人が門の前を訪れていましたし、学生さんと先生のグループなども来ていて、谷中霊園内にあって、もっとも有名な墓所のようです。
今年度のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で断片的に描かれていた慶喜を知る程度の知識でしたが、実在したことを証明するお墓を見ると、歴史の大転換期に生きた本当の人物により興味がわくのでした。
また、慶喜の墓所の手前の谷中霊園内に、慶喜の10男・精(くわし)のお墓があることをガイドさんに教えていただきました。勝海舟の養子となって「勝 精」なのだそうですが、近くに眠っているというのは感慨深いですね。
渋沢栄一(1840-1931)の墓
そして、こちらこそが『青天を衝け』の主人公、渋沢栄一の墓です。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)
職業:社会実業家/生没年:1840年3月16日〜1931年11月11日/墓所番号:乙11号1側
江戸時代末期から大正初期にかけての幕臣、官僚、実業家
一橋家に仕える。新政府の大蔵省官史を経て第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立。生涯に約500の銀行・会社の設立・育成に関わり、「日本資本主義の父」と言われる。
福祉や教育などの慈善・社会事業にも尽力した。
栄一と親族のお墓はその功績のためかとっても広い区画でした。そして例年以上の人気なのか、目立つ立て看板も設置され、こちらも人気(ひとけ)のある墓所となっていました。
「青淵澁澤榮一墓」の墓碑銘で、「青淵(せいえん)」は栄一の雅号。満91歳まで生きた波乱の生涯、渋沢栄一の功績に違わず、広い空のもと堂々と正面を向いています。
右手には、最初の妻・千代さん(1841-1882)のお墓が。ドラマでは橋本愛さんが演じていた聡明な奥様でしたが、ちょうど先週の放送で、コレラに罹り亡くなってしまいました。享年42は早すぎますね……。
渋沢栄一は、2024年度から発行が開始される新1万円札の顔となりますから、これからも多くの人が訪れる、もはや東京の名所的なお墓と言えそうですね。
朝倉文夫(1883-1964)の墓
朝倉 文夫(あさくら ふみお)
職業:彫刻家/生没年:1883年3月1日〜1964年4月18日/墓所番号:甲9号17側
ガイドさんに最初に案内いただいたのが彫刻家・朝倉文夫氏のお墓だったのですが、その美しさに惚れ惚れしてしまいました。立派な門構えをつくる石柱もそうなのですが、墓石の表面が波打っているのがわかりますでしょうか。
墓碑銘の「朝倉文夫夫妻之墓」が浮き彫りになっているうえに、各面がなめらかにウェーブしていて光沢まであるんです。
裏側も同様なのですが、昭和29年建立とありますから、その当時からこんなにモダンな墓石が造られていたことにも驚きました。谷中霊園マップには載っていなかったので、教えてもらったことに感謝、どなた様も一見の価値ありです。
日本の彫塑界をリードし、文化勲章を受章するほどの活躍をされたという朝倉文夫さん。その作品はすぐ近くの朝倉彫塑館で見ることができます。
代表作に「墓守」と題された彫像があるのですが、この人物モデルは隣接する天王寺墓地に実際にいた墓守なのだそう。お墓の美しさが作品を鑑賞するきっかけになるほどに、ぜひ訪れて見てみたいと思いました。
横山大観(1868-1958)の墓
横山 大観(よこやま たいかん)
職業:日本画家/生没年:1868年11月2日〜1958年2月26日/墓所番号:乙8号4側
明治、大正、昭和の三代にわたり日本画壇の第一人者
東京美術学校に入学、岡倉天心の下で学び、感化を受けた。「朦朧体(もうろうたい)と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。自宅が横山大観記念館として公開される。
近代日本画の巨匠、横山大観のお墓です。飛び石が続く墓前へのアクセスがもう、普通のお墓とは違いますね。ベンチでひと休みしても良いよ、といった懐の深さまで感じます。
台東区上野池之端、不忍池のほとりの、大観の住んでいた家がそのまま記念館となっているそうで、この界隈が古くから芸術家が多く集まった町でもあることを再認識しました。
現在休館中ですが、いずれ訪れてみたい場所です。人物については動画がわかりやすく伝えてくれています。
鳩山一郎(1883-1959)の墓
横山大観のお墓のすぐお隣が、元内閣総理大臣・鳩山一郎氏のお墓です。
鳩山 一郎(はとやま いちろう)
職業:政治家、首相/生没年:1883年1月1日〜1959年3月7日/墓所番号:乙8号4側
政治家、自由民主党初代総裁。第52・53・54代内閣総理大臣
日本とソビエト連邦との国交回復を実現した。
お墓巡りが政治まわりへの興味関心にもつながっていきます。自分の記憶にあるのは息子の鳩山由紀夫氏の首相時代ですが、お父様、3度も首相を務めていらっしゃったのですね。一族のお墓がたくさん並び、きれいなお花が供えられていたのが印象的でした。
大原重徳(1859-1885)の墓
大原 重徳(おおはら しげとみ)
職業:政治家/生没年:1801年11月21日〜1879年4月1日/墓所番号:乙6号5側7番/東京都指定旧跡
大原重徳と聞いても、日本の近代政治史に通じていなければなかなかピンとこないかもしれません。そんなときに助かるのが、東京都が設置している看板のQRコードです。「東京都文化財情報データベース」にアクセスできます。
看板には難しく書かれている解説が、噛み砕いて書かれていました。
大原重徳(1801-79)は幕末・維新の尊王攘夷派公卿です。文久2年(1862)島津久光の献言により幕府改革の勅諭を将軍家茂に伝達するため江戸に来ます。このことにより一橋慶喜が将軍後見となり慶喜将軍へつながっていきます。王政復古派として活躍しますが、明治3年(1870)に官を退きます。
東京都文化財情報データベース 大原重徳墓より
なるほど慶喜へとつながっていくのか、とここから目と鼻の先の慶喜公の墓とのつながりを感じる訳です。この辺りは、変革期の政治に関与した重要人物のお墓が多いのですね。勉強になります。
こうした情報に瞬時にアクセスできるのは本当に助かります。文化財指定されている数基にしか付いてないのが残念ではありますが。
そのほかのお墓
玉乃世履の墓
玉乃 世履(たまの よふみ)
職業:初代大審院長/生没年:1825年9月3日〜1886年8月8日/墓所番号:甲9号17側
幕末から明治時代の武士、のちに司法官で「明治の大岡」と言われた人物だそうです。見上げるほどに高身長でしゅっとした墓石には「大審院長従三位勲二等玉乃世履墓」とあり、なにやらときの政府に認められた功績の持ち主だとわかりますね。
手前には鳥居も備えた特徴的なお墓だったためガイドさんに教えてもらったのですが、この時代に生きて翻弄されない筈がなく、墓石を通じて偉業が偲ばれました。
神谷伝兵衛の墓
台東区浅草で有名な「神谷バー」の創業者、神谷伝兵衛のお墓。
神谷 伝兵衛(かみや でんべえ)
職業:実業家/生没年:1856年3月17日〜1922年4月24日/天王寺墓地内
創業明治13年から同じ地で営業している偉業は、今でも継続中。有名なカクテル「デンキブラン」も彼が生んだものだそう。芸術文化や政治とは別の側面で、大衆文化をつくった功績ですね。個性的で存在感を示しているお墓で目立っていました。
墓マイラー覚え書き
まだ訪ねたいお墓を多く残しながら、一度では到底無理だと早々に悟ったので、また次回に持ち越しです。
ここは谷中の町散策や上野の芸術鑑賞などとも絡めて、お墓参りする人物の背景に触れるテーマを設定することもできそうです。映画好きとしては、俳優の長谷川一夫や森繁久彌のお墓参りも、まだ谷中に残しております。
今回強く感じたのは、後世に名を残す方法の一つがお墓だったんだ、ということ。必ずしも本人ではなく、遺族が建立する性質があるものですが、偉業や家を象徴する朽ちない墓石が残されていることで、たしかに伝わるものがあります。
石碑が多くあることも含めて、谷中霊園はそうしたお墓の性質を色濃く感じられる墓地でした。
初めての谷中霊園では、台東区観光ボランティアガイドさんがいなければ、半分も訪ねられなかったし、知識も得ることができなかったと思います。あらためてお礼申し上げます。